低人堂

大阪・堺東のブック&ギャラリー酒場『低人堂』と申します。低人(©︎辻潤)を理念に選書した文学・写真を中心とする古書(と少しばかりの新刊)、絵画や写真などの展示を肴に飲み明かすお店です。どうぞよしなに。

古本と美術展が肴の酒場やります。落伍者に向けて。


さて、タイトルの通りです。やります。ぼちぼち準備中です。開店日は3月13日を予定しております。13日の金曜日なので覚えやすいかな、と。

大阪は堺市の玄関口とも言われる堺東にてやります。
気が早いですが、以下住所です。よろしくお願いいたします。
(大阪府堺市堺区翁橋町1丁9-3 スウィングプラザ翁橋2F)


端的に言うと、古本(と少しの新刊入荷予定)を買ったり読んだり、写真・絵画の展示を鑑賞しながら泥酔することのできるお店です。

店名は『低人堂』

この低人という言葉は、日本のダダイストの一人であり、文筆と生活の両面で目一杯に「無意味」をやらかし、放浪の末ついには餓死した辻潤による造語です。

彼について、詩人の萩原朔太郎はこんな風にスケッチしています。

辻潤と低人教』

彼の周囲には、いつも市井のルンペンや労働者が集っている。人生に敗残した失業者や無職者は、彼によって自分の家郷と宗教とを見出すのだろう。耶蘇の弟子たちが漁師や乞食であったように、辻潤の弟子もまた、市井の「飢えたるもの」、「貧しきもの」の一群である。彼は此等の弟子たちに固まれながら、紹えず熱心に虚無の福音を説教している。……エルレーヌのような酔態で、ヨタのでたらめを飛ばしながら、説教する。そこで彼の弟子たちは、不敬にも師のことを「辻」と呼びつけにし、時には師の頭を撲ったりする。これは不思議な宗教である。

辻潤においては、生活それ自体が表現であったため、第三者によるスケッチが彼自身の作品よりも彼を深く描いているという哀れなねじれがあります。
というわけで、卓抜なこの朔太郎の文章から、もう少し読んでみることにします。当店の名前に盗ませてもらった「低人」という言葉についてです。


辻は自ら自己を「低人」と称している。低人はニイチェの「超人」に対する反語で、谷底に住む堕落人と言う意味だろう。そこで彼の説く救いの道は、この低人の宗教であり、それ自ら「低人教」になっているのである。

要は駄目人間とか人生の落伍者といった意味合いの「低人」。

その名を冠する当店は、「店主の私が辻潤のような人間」とは残念ながら言えません(さすがに恐れ多い)。しかしせめて、私もまた低人教の信奉者の一人として、低人の慰めとなる店でありたいと思い、この店名をつけました。

また、当店が書店とギャラリーという業態ではなく、あくまでも酒場である理由も、辻潤にあります。

『低人堂』と名乗るからには酒場でなければならなかった。それはなぜか。


辻潤はいつも酔っている。もし酒を飲まなければ、生きることの苦悩と悲哀に耐えないからだ。まれにアルコールの気がない時、彼は死んだ鮒のようにぼんやりしている。

辻潤がいつも酔っ払っていたのだから、低人のための当店は、絶対に酒場であらねばなりません。辻潤、あるいは、われわれ低人は、絶えず酔っ払うことをこそ求めるのですから。
文学と芸術も、強烈なアルコールだからこそ、愛玩するというわけです。

令和の世に、低人教の教会であることこそ、当店の理念です。

書籍にしても低人の慰めとなるような本だけを選書しております。

耽美主義、身体論、東洋思想、ダダイズム少女愛好などなど…。
さまざまな趣向のものを、文学・人文書・写真を中心に揃えております。
詳しい書籍紹介などは、いずれこちらのブログにて更新していくつもり(あくまでつもり)ですので、是非ともご覧いただけますと幸いでございます。


さて、ではここらで、なんとなく良い感じにこの記事が締まるように、辻潤が愛したボードレールの詩の一部を引用してこの記事を終えることにします。
どこか尻切れトンボな感じもいたしますが、なにせ『低人堂』ですんで、これぐらいの愚鈍はご勘弁を。

『酔いたまえ』

いつでも酔払っていろ。その他のことはどうだっていい、これこそ唯一の問題だ。